2011年5月16日月曜日

【 復興支援レポート vol.4 】by ソクハイ 渡辺

基本情報

◆ 日 時 : 5 月 4 日(水)
◆ 場 所 : 福島県いわき市字原町 大平さん(職業:大工・年齢:56 歳)邸宅(福島第一原子力発電所から南へ約 45km)
◆ 担当者 : ソクハイ渡辺
◆ 移動方法: 父親から提供を受けたマークツーセダン1台(普通車)
【行き】
   出発:5/3(火)実家のある新潟に到着。足りないものを購入、準備
      5/4(水)4:30 実家を出発。
   到着:5/4(水)7:00 ボランティアセンター(以降 VC)が入っているいわき市社会福祉センター 着
【帰り】
   出発:5/4(水)16:30 いわき市社会福祉センター出発
   到着:5/4(水)19:00 実家着(所要時間 2 時間 30 分)



主な活動内容

ボランティアで被災された方のお宅の掃除をして来ました。。詳細は以下の通りです。



当初は、いわき市勿来(なこそ)地区のボランティアに行くつもりだったが、前日、前々 日のボランティアの受け付けが 10 分、15 分で終了していて、自分が行っても何も出来ない んじゃないかと思い、急遽、いわき市社会福祉センターに入っている VC に変更。


◆ボランティア受け付けについて(新規の場合)

1、住所、名前、電話番号を登録、ボランティア保険へ加入(VC で加入すれば
掛け金は無料)、車を提供できるかの意思表示(自分は yes)。
2、10 分間ほど、VC の方からオリエンテーションと質疑応答。
3、車の提供の有無に分かれてマッチング(msgr で言う所の手配)。
4、チームを編成。今回は 21 人で、この時既にお伺いするお宅と作業内容は決定済み。
5、ドライバー以外でリーダーを決定(当然ながら、いわきの方)。
6、資材の準備。
7、10:00 過ぎに VC を出発。





10:40 頃、今回の作業現場である大平さんのお宅に到着。 こちらの大平さん宅は、既に屋内の泤、砂等は既にかき出し済み。

依頼された作業:
1(午前)・大平さん宅の前にうず高く積まれた泤、砂、材木、瓦礫等の山を敷地外(隣の主を亡くした家)の敷地へ崩して移動及び撤去。
さすがに 21 人で取り掛かったかいがあって、お昼ご飯までにはほぼ終了。

2(午後)・一部の男性は引き続き午前の作業、それ以外の男性は裏庭の整備。大平さんが 裏庭に車を入れたいため、散らかった大きな石(中には 300kg 級も)を整頓。ここに松 等を植え、ちょっとした日本庭園風にしたいらしい。女性は屋内の掃除。途中から外の 作業をしていたメンバーも加わり、みんなで掃除。自分も掃除に参加したけど、拭いて も拭いても白っぽくなる。石膏ボードの石膏が床にこびり付いていて、なかなか取れなかった。

これらの作業は全て 14:00 過ぎには終了。

16:00 頃、VC へ戻る。「大平さん宅掃除チーム」に「お疲れさまでした」と声を掛け、お土 産を買いに AEON へ。喜多方ラーメン詰め合わせ、ままどおる、日本酒を買って帰宅。
19:00 頃、実家への最寄りのインターへ到着。この時、料金所のおじさんに「いわき中央」 のチケットを見せたら「避難ですか?」て聞かれた。確かに、新潟にも避難している方々 も居て、避難所もあるけど・・・きちんと「ボランティアの帰りです」と言っておきまし
た。


地元の方のお話し:
大平さん:地方では良くある話しで、この地域も基本的に保育園入園から義務教育終業ま で児童及び生徒の増減が、転校でも無い限り無い。保育園から中学校まで、長い時間を同 じ仲間で過ごすことになり、ここで作られたコミュニティの結束力は強い。大平さん自身 も生まれてから豊間の地を離れた事が無く、大きな土着愛をお持ちだった。だから、50 年 以上過ごした豊間の地からは絶対に離れずに、3 年から 5 年後には必ず復活するとおっしゃ っていた。
本震が来た直後は、慌てふためき、頭が真っ白になり、津波までは考えが及ばなかったそ う。津波警報は本震で停電や電線が切断されたため、第一波めの放送は無かった。第二波 以降は消防車が回ってきて、非難を促していたと言う。 津波の直後、状況を見に来た時に目にしたのは、泤、砂、材木、瓦礫の山からはみ出た、 ご遺体の腕や足、頭部等。この惨状を目にしても、放心状態で特に何も考えられなかった そう。
ご自宅から 5~6km 離れた所に作業施設を持っているが、そこも地震と津波で壊滅。 この震災で受けた被害額はご自宅、お車、作業場を全て合わせると、8桁にも及んでいる。 「今後も、いつでもお越しください。美味しいお酒とお刺身を用意します」とおっしゃっ ていた。


リーダーさん:
いわき市の復旧が遅れている一番の原因は、原発の風評被害と情報ソース の扱いの大きさ。この為、本格的な復旧が始まったのは震災から 2 週間後。一番、復旧が 遅く始まった地域は先月の中旬頃。


地震ディスカッション@昼食後:本震が起きた翌日、12 日未明のフォッサマグナを震源と した地震を始め、他のプレートで起きていた地震に対して、チームの殆どの皆さんが「以 外」との感想をお持ちだった。そこで、「居ずまいを正してるのでは?」と私的見解を話し たら、「そうですね。このまま落ち着いてくれたら良いですね」と、ちょっとだけ同意を頂 いた。


写真撮影:正直、撮る気にはなれなかった。自分にドキュメントフォトグラファーは無理。



感想・コメント


・VC を出発して、豊間地区の手前に元湯鉱泉、塩谷崎カントリークラブ(地震発生当初、 ここがこの辺りの地区の避難所になっていた。大平さんもここに避難していた。)、小名浜 カントリークラブを擁する 200~300m 位の山があり、この山があったおかげで内陸側の地
域は津波被害から免れた。この山を越え、豊間地区に入り、目に飛び込んできたのは、テ レビで何十回となく目にしている壮絶な惨状。暫くの間、言葉を失い、やっと出てきた言 葉は「酷い・・・」。
少なくとも、海沿い付近の豊間、小名浜、新舞子地区で記録した津波は大平さん宅で 2m~3m (自分が目視で確認)、海面からは約 8m(毎日新聞より)。だから、この山を挟んだ内陸側 と海側では本当に天と地(奈落の底?)の差があった。海沿いに残っていたお家は、ほと んどが新しめの建て物のみ。目視で確認できたのは 10 棟から 15 棟でそれ以外の殆どは基 礎だけを残して流されていた。
この惨状を目にしたら、誰もが言葉を失い、涙も止まるでしょう。




・大平さん宅にチームの全員が到着した時に、黄色いエアパッキンに入った物体を発見。 後で確認してみたら「トランスフォーマー」のプラモデルだった。更に、午前中の作業の 最中、瓦礫の山をほじっていたら「ガンキャノン」のプラモデルもグズグズになった上蓋
と共に発見。その他、子供の手のひらサイズのおもちゃもいくつか出てきた。

・昼食後、豊間海岸まで行ってみた(と言っても、大平さん宅からは本当に目と鼻の先)。 歩いて行く途中で目にしたのは、シャンプーハット、三輪車、日産 GT-R のラジコン・・・。 何故か、子供たちが使う道具やおもちゃに目が行く。地図にもあるけど、大平さん宅より も海側に市立豊間保育園がある。その建物の外側は残っていたものの、当然、中身は何も 無くなっていた。きっと、三輪車で遊んでいた子供もこの保育園に通い、親御さんも子供 の未来に期待していた事を思うと、切ない気持になってしまった。
やはり、この辺りの地区も小学校低学年の子供達が津波に呑まれていて、高学年の子供達 は無事だと言う(リーダーさん談)。
この他には、この地区で営んでいた民宿の写真とか賞状が入ったバケツも目にして、「思い 出拾い」をしているボランティアチームも居た。

・この地に赴き、涙が出なかったのは、絶対に自分の強さではなく、今まで感じた事のな い異様な空気が出させないようにしたんだと思う。本当に空気が自分の日常とは全く違う 雰囲気で、この空気感の違いは画面からは絶対に伝わらない。
例え、東京=新潟だとしても、現在のいわき市沿岸部は自分の日常からは遠く遠くかけ離 れた状態。人それぞれの性格にも寄るけど、なるべく「前向きな気持ち」で臨んだ方が良 い。と、言っても、実際にあの惨状を目にしたら、そんな気持ちも瓦解するでしょう。 自分は不器用なので、なるべくニュートラルな気持ちで臨んだら、かなり精神的に打ちの めされ、心がえぐられた。

・地方の漁師町は潮風から身を守るためと住める土地が少ないため、住宅が密集している。 この為、道路が非常に狭く、大型重機を入れるとすれば、海から入れるしか方法は無いの ではないかと思う。それと、この辺りは「被害が少ない地域」とされており、自衛隊等の 大部隊は入っていない。小型の重機なら自走で行けない事はないけど、作業の依頼をされ る方にとっては、人海戦術を取り、多くの人数で伺った方が精神的にも話し相手も出来て 楽しいと思う。だから、まだまだこれからも「ボランティアパワー」が必要。

・VC から豊間の道中で目にしたのは、いくつかの田んぼでの「代掻き」。この作業は田植 えの水を入れる前にする作業で、内陸部の米農家の皆さんも畑もビニールハウスも普通な 状態で、いわゆる「普通の生活」を営んでいた。

・大平さんは凄く前向きな方だった。おかげで自分含め、チームの全員が少し精神的に楽 になった。本当に「明るく、元気に、朗らかに」依頼者やチームメンバーに接するのが大 事。とは言っても、大平さんの奥さんは今、癌で入院中。お子さんの話しは聞けなかった けど、お亡くなりになっていたら、大平さんは一人ぼっち。いくら、「前向き」とは言え、 自然に涙が溢れて来るのではないだろうか。だから、なおさら被災者の方へは「明るく、 元気に、朗らかに」。
本当に泣きたいのは依頼者。ボランティアは後でいくらでも泣ける。

・「時間」て言うモノは進む事しか出来ない。未来は今になり、今は「今」と言った瞬間、 過去になる。だから、前向きに生きたいんだけど、なかなか切り換えが出来ない。
既に亡くなられた故人の方々を悔やんでも悔やみきれないし、時間は進む一方だし、「たら、 れば」は禁句だろうけど、「あの地震がなかったら・・・」とか「津波が来なければ・・・」 何て言う言葉が自然に頭に浮かんでくる。

・自分は 5 月 5 日に帰京。東京駅で新幹線から降り立った時に、ホッとしたのか、何故か 涙が溢れて来た。小さい子供たちを見掛けると更に溢れて来る。やっぱり、被災地で見た おもちゃが多大な影響を自分に及ぼしたんだろう。
きっと、様々な大きさの棺桶や骨壷があったに違いない。中には墓石が倒れた為に 49 日法 要もままならない仏様もいらっしゃるでしょう。



・それなのに、こんなに精神的に打ちのめされてるのに、「また、行こう」と思ってる自分 が居る。何故だか解らないけど、もっともっと助けたいし、もっともっと自分の目で見た い。現在の惨状も、復興への道程も見ておきたい。
そして、復興を遂げた暁には、合同慰霊碑の前でそっと手を合わせたい。

◆総括


今回の活動は、かなり精神的にやられたけど、有意義だったと思う。行けば必ず現地の力 になれる事が解ったし、それが本当に実感出来た。
・ソクハイ内外問わず、「いわきに行って来た」と話すと、一様に「え、いわきってそんな に酷いの?」とリアクションが返って来る。やはり、これについては情報ソースの扱いの 大きさが問題だと考えられるので、行った人達で紹介と言うか、拡散が必要。
・お金については、ちょっと工夫すれば足代と地元に落とすくらいは出せる。お昼ご飯は お弁当を持って行けば良いわけで、そんなに気にする必要もない。
・VC からの車の提供が無いので、これついては少し議論の余地がある。今回は自分一人で 行ったから車の提供が出来たけど、一台の車に大人数で乗って行ったら、この車の提供も ままならなくなってしまう。とは言え、行く人数が 4 人とか 5 人なのに 2 台とかでコンボ イを組んで行くのは、コストも掛かるし、無駄な気もする。今後、話し合いましょう。
・いわき市と言う選択は距離、被害の大きさ、復旧の進み具合を考え併せても msgr-scrum 的にも正解なのではないかと思う。何せ、遅い所は先月中旬からやっと復旧が始まったん ですから。まだまだ、「ボランティアパワー」は必要。
・自分的には、上手に msgr-scrum を使い、現地に赴いて行こうと考えている。


レポート作成

名 前 :渡辺 謙資
所 属 :株式会社ソクハイ
自転車 :ダウンチューブにステッカーがないシルバーのカラビンカ。一応、ブルー、シル バー、ブラックの3色でまとめています。
コメント:原発については、地元の人達はそんなに気にしてる風でもなかったです。今まで 怪我をして撮ってきたレントゲンとか CT スキャンに比べたら、今回の被曝量なんて微々た るものでしょう。


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